#31 / Chronicle

◆A6(文庫)オンデマンド / P160 / 予価¥600-
◆2009/08/15発行予定
◆サイト掲載小説18本再録
◆原作設定準拠
sample
広くはあるけれど逃げ場所の少ない十数メートル四方の敷地の中で、いかに鬼のタッチをかいくぐるか。鬼の方も、長いとは言えない制限時間の中で何人を捕らえることが出来るか。唯一停まっている志賀の車をどう盾にするか、それをどう利用して追い詰めるか。あるいは誰かが追い詰められている隙に、時間いっぱいまで逃げる算段を立ててみたりもする。真剣にやると、案外奥深いものだ。
部員十人で円陣を組んでじゃんけんをして、負けた花井が鬼になり。十数えてから、地面を蹴って標的を追い詰める。
花井は割と早いタイミングで部員達を次々と捕らえていった。追うと見せかけて別の人間に狙いを定め、引いたと思わせてから一気に追い詰める。始まってから五分と経たない間に、残っているのは田島だけになった。
「おー、花井すげー」
当の田島がそんな呑気な言葉を放ったのは、それまで花井は一度も田島を追おうとはしなかったからだ。やたらと俊敏で身のこなしも早い彼を早い段階で追い詰めようと思っても、他の面々を捕らえる時間がなくなってしまうだけだというのはよくわかっている。
そこここに投げ出されている腕や脚や頭を踏まないように気をつけながら縁側に出ると、室内よりも冷たい空気に身を包まれて、思わず肘まで捲っていた袖を下ろした。それから、廊下に置かれた冷蔵庫の横を通って土間へと向かう。流しの足下に置かれた簀の子から木のスリッパを履いてトイレのドアに手をかけると、後ろから簀の子に足を下ろす音がした。くるりと振り向くと、そこには例の猿もとい田島。
「何、お前もトイレ?」
「んー」
小声で聞くと、肯定なのか否定なのか微妙な返事をされた。まぁ、夜中にこんな風に抜け出てくるなんて俺と同じ目的しか思いつかない。先に行くか、と促すと、ふるりと首を振られる。
「んにゃ、花井先どうぞ」
夏の天気は大体に於いて安定しているものだが、厄介なのは夕立だ。学校を出る時には傘などいらないぐらいの雨だったのに、校門を出て数分もしない内にこの降り様。近道をしようと路地に入ったのも間違いだった。大通りに出ていればコンビニなり何なりあったので傘の調達ぐらい出来たはずだが、こちらの道は住宅街が続くばかりで傘の置いてあるような店はない。
(今からでも、学校戻った方がいいのかな)
一瞬そんな考えが頭を過ぎったが、学校へ戻ったところで置き傘があるわけでもない。ともかく傘の置いてそうな店に着くまで走るか、と半ば諦めのような結論に至ったところで、何処かから「花井!」と呼ぶ声が聞こえて足を止めた。アスファルトの窪みに溜まった雨水が、靴を通して染み込んでくる。
マナーモードにしていた携帯がポケットの中で振動を伝えてきたのは、古典の板書をノートに書き写している最中だった。授業が終わってから開いてみると、ディスプレイに「メール受信」の表示と監督の名前が表示されている。
受信していると、前の席の阿部がこちらを振り向いた。手にはやはり携帯を持っている。
「今日休みだってな」
「あ、モモカンか?」
一足早くメールに目を通したらしい阿部に返事をしながら、受信したばかりの文章に視線を落とす。急なバイトが入ってしまい、午後練に参加出来ないとのことだった。シガポはいるが職員会議で練習に合流出来るのが遅くなる。指導者のつかない部活動が認められるわけもなく、ミーティングが出来るわけでもないので、今日は一日休養ということになった、というのがひとつ。
「あと練習時間のことと」
同じチーム内でライバル、他のチームメイトとは少しだけ違う関係。田島に面と向かってライバル宣言をしたわけではないが、花井の中で田島のいる位置は自分の目指すところであり、いつか超えるべきところでもある。
その相手は今、目の前でとんでもなく完璧に近いバッティングを見せつけてくれた。しかも何の気負いもプレッシャーもなく、悠々と楽しげに。
自分との距離を見せられた気がして少し凹みかけた花井だったが、怖じ気づいている場合ではない。田島を追い続ける、いつかは追い越す、そう決めたのは紛れもなく花井自身だ。
だから、問い掛けられた言葉には「そーだよ」と短く答え、球出しをしている西広に軽く頭を下げてからバットを構えかけたのだけれど。
背後でざり、と砂の擦れる音がしたのに気が付いて、ゲージの中で振り向くと。
「部活行こうぜー!」
昨日はグラウンドが使えずミーティングのみの日で、その前は雨のため練習自体がなかったので、存分にボールを追うのは二日ぶりだ。奴のテンションが上がるのはわかるが、だからといって叫びながら来ることもないのに。
と、そんなことをこいつ相手に説教してやったところで、行動を改めることはないだろうというのはわかっているので、最近では文句を言うこともなくなっている。実は名前を呼ばれるのは嫌いじゃないんだろう、とは先日阿部が言っていた言葉だが、そんなことはない、と思う。まぁ、あの声が聞けなくなると言うのは多少淋しい気がしないでもないというぐらいだ。多分。
がちゃりと鈍い音が聞こえてそちらを向くと、重いスチールのドアから田島がひょっこりと顔を覗かせた。よぉ、と軽く右手を挙げた阿部に、眉間に皺を寄せた彼が大股で歩いてくる。近づいてみると、鼻の頭に散らばった雀斑がきゅっと寄っているのがわかる。
阿部と花井がいるフェンスの所まで辿り着いた田島は、不機嫌を隠そうともしないで口を開いた。
「何やってんの」
「別に、何もしてねぇけど」
「何で花井とくっついてんの!」
いや、何故だと言われても。
暗記している明日の時間割の中で予習が必要な古典とリーダー、当てられている数学、明日ではないけれど次の授業でノートの提出を予告されている生物の教科書ノート資料集問題集その他一式が鞄の中に全て入っていることを確認し、今日の授業で使った体操服とジャージの入った布バッグを背負うと、阿部の席に近付いて、名を呼んでみる。ちょっと声をかけただけでは反応はない。
グラマーの授業で盛大に居眠りをしていた姿を思い出した。昨日、桐青のデータ見直ししてたら夜更かししたとか言ってたっけ。
(そういや、板書見せろっつってたな…)
一旦自席に戻り、整理された机の中からグラマーのノートと配布されたプリントを取り出して、鞄の中に突っ込みながら再び阿部の席へ近付いた。物音を立てるのも構わず、無遠慮に動いているのに、一向に目を覚ます気配がない。
「帰ったんじゃなかったのか?」
そう聞いたのは、阿部が早々に着替えを済ませて部室を出て行ったのを見ていたからだ。いつもは一緒に帰っている三橋が一瞬慌てていたものの、阿部が何やら囁くと頷いておとなしく着替えを続けていた。結局、今日は栄口が一緒に帰っていたんだっけ。
「や、忘れモンしたから」
言われてみると、阿部の左手にはプリントが一枚。指の間から数式が見えたので、数学の練習問題か、と思いきや。
「コレ、先週終わった奴じゃなかったか?」
(いつの間にか、寝ちまったのか)
そこまで思い出して目線を下に向けると、少し皺の寄ったルーズリーフが腕の下に敷かれているのが見えた。シャープペンで書かれた、少し右上がりの自分の文字も。
夕暮れの時間帯ならばそろそろ下校時刻だ。続きは家でと思い身体を起こそうとしたが、その前にからりと遠慮がちに教室の扉が開いた。
「阿部」
廊下の方から聞こえた柔らかい声に、ぶっきらぼうな声が自分のすぐ近くで応える。どちらも聞き慣れた声だった。
「何、花井まだ寝てんの」
「あぁ」
近づいてきたのは栄口だ。まだ、という言葉からすると、自分がここで眠りこけているのは栄口も知っていたということか。当然のように応えた阿部も。
カーテンを閉めると、夏特有のじりじり照りつける日光から縁遠くなった気がする。先程まであんなに疎ましく思っていた暑さが妙に懐かしくなるから不思議だ。
視聴覚室を借りて、明日の対戦校のデータ解析をしているのだ。監督と花井と俺、広い教室に三人だけ。他の奴等は栄口に任せている。
篠岡が手をかけて作ってくれたデータと監督のビデオを照らし合わせ、そこからどうやって攻めるべきか、どう守るべきかを考える。地道な作業ではあるが、勝つためには必要な作業だ。データ分析は得意な方だから、特に苦にもならない。
二巡目までビデオとデータを見比べたところで、一度ビデオを止めた。ちょっと休憩しよっか、と言って出ていった監督の背を見送って、いつの間にか力の入っていた肩を解すのに腕を伸ばす。ストレッチをするように首を回しながらふと隣を見ると、まだデータを睨みながらぶつぶつと呟いている顔が見えた。
「積もったりしてる?」
壁側に追いやられたオレの位置からじゃ、窓の外は見えない。外がどんな感じなのか気になって身体を起こそうとしたら、動きに合わせて捲れそうになった掛け布団ごと、がばって押さえつけられた。
「無駄に動くな、寒い」
「無駄って…」
端的且つ率直更に無愛想な言葉に頬を膨らますも、花井は動じずに早々と寝返りを打って目を閉じる。もう寝るぞ、って、部屋の電気なんて花井がベッドに入ってくる前に消してるんだから今更寝る以外に何が出来るんだろう。明日からは年末年始を挟んで久々の練習なわけで、それも最初は雪かきから始まることにはなりそうだけど、ともかく全力で体を動かすためにはちゃんと睡眠とっとかないといけない。というのはともかく、何で。
「……はないー」
(ちょっと触るぐらい、いいよね)
何にもしない、って家上げる時に言った科白に自分自身でちょっとだけ弁解して、一気に真っ赤になった花井の頬に手を伸ばす。ぎゅって目ぇ瞑った顔も可愛いな、なんて本人に聞かれたら鉄拳のひとつも飛んできそうな言葉はすんでの所で飲み込んで、欲求のままに顔を近づけたところで――ぶるる、と花井の鞄の中から携帯のバイブの音が聞こえた。
気付いたのがオレだけだったら、無視して花井にキスしてたんだと思う。付き合ってるとは言え流石に学校でこんなこと出来ないし、同じクラスで同じ部活だから一日の殆どを一緒に過ごしてはいるけれど、ふたりきりになるチャンスなんてないようなもので、だからこうやって触れ合うのなんて数日ぶりだ。電話だかメールだか知らないけど、携帯なんかに邪魔されるのはちょっと悔しい。
点入れられちゃったな、ってぼんやりそう思っていると、頭の上がふっと暗くなった。いつまで転がってんだよ、と溜息混じりの声がする。
「起きれっか?」
顔を上げると、花井がこちらを覗き込んでいた。丁度逆光になって表情は見えないけど、声の調子でちょっと心配かけちゃったのはわかる。
ひょいっと身体を起こしてみる。うん、土と擦れたとこは痛いけど、関節捻ったとか頭ぐるぐるして起きあがれないとかってことはない。へーきへーき、って笑って言うと、遠くからサッカーボールが飛んできて頭にぶつかった。
山なりで飛んできたそれはさほどスピードも出てなかったし衝撃もなかったけど、それでも痛いものは痛い。当たった辺りをさすりながら後ろを振り向くと、いつもの通り怖い顔をした阿部が立っていた。
「何ともねーならとっととどけ」
「ひっでーの」
笑顔を見るのは嫌いじゃない。仲間のものなら尚更だ。満面笑顔の大安売り、って言葉を思い浮かべてしまうぐらい年中にこにこしている彼のものでも、それは変わらない。
けれど、教室に入って来るなり彼が言った言葉というのが。
「あのさー、今日花井がさー」
……やっぱり、今日もそれか。いつの間にかチームメイトとか親友を超えた、所謂「オツキアイ」を始めた相手の話。全く、毎日毎日よくも飽きずに遠く離れた端っこの教室まで報告しにくる気になるもんだ。
前に「何でわざわざ一組まで来てその話を」とさり気なく聞いてみたところ、「だって栄口ぐらいしかオレの話聞いてくんないんだもん」とあっさり返ってきたことを思い出した。
「花井くん、も、食べない?」
「俺?」
戸惑ったのは、突然声をかけられた花井の方だ。いいのかな、と首を傾げ、それでも三橋の好意は無にしたくなくて、じゃあもらっていいか、と素直に答える。何かのオーラを出している阿部は見なかったことにして。
箱の中に指をつっこみ、一本抜き取ろうとして――中身が妙にスカスカなのに気が付く。
「なぁ三橋、コレってラス一じゃね?」
「え?」
一本を手に取った花井が、ほら、と箱を振ってみせる。中身が入っていたらそれらのぶつかる音がするはずだが、聞こえるのは内袋と箱が擦れ合うカサカサという音だけだ。
「あ、えっと、は、は、」
「は?」
「はんぶんこ、しよ!」
「こんな高かったっけ」
「何が?」
思わず声に出して呟くと、いつのまにか近くに監督が来ていた。妙に感慨深い言葉が何故か気恥ずかしくて、「いえ、何も」と言葉を濁す。そう気にすることでもないと思ったのか、監督はいつもの明るい声で言った。
「フォームはオーバー?」
「あ、はい。オーバーか…ちょっとスリークォーター気味だったかも」
まずはボールを握ったまま、投げずに何度かフォームを確認してみる。足の上げ方、タイミング。繰り返して身体が思い出したところで、実際に捕手に向き直った。目が合った田島が、マスクの奥で笑いながらミットをパンと鳴らしている。自分や花井のように少しでも経験があったわけでもないのに妙に馴染んでいるその姿に、少し気が解れた。
先頭を自転車で走る百枝は、全員が着いてきていることを確認すると、いつもは曲がらない三叉路を右に折れた。主将だからと大抵前の方で走る花井が頭の中に疑問符を浮かべた時、いつの間にか花井を追い越していた田島が思ったことをそのまま口に出した。
「カントク、何処行くんスかー?」
その言葉は端的に且つ正確に、全員の思いを代弁している。ちらりと振り向いた百枝は、笑みを顔に浮かべたまま言った。
「もうちょっと行ったら川沿いに土手があるでしょ。あそこ走りましょ」
天気良いから、ああいうところ走るのは気持ちいいよ。
そう続いた百枝の言葉に真っ先に目を輝かせたのは当然田島だったけれど、その感覚を思い出して、もしくは想像して、この陽気さながらわくわくした気分になったのは全員同じで。住宅街を抜けた先にある川が見えた瞬間、わぁとか何とか、歓喜とも溜息ともつかない声がそれぞれから漏れた。